戦争と平和のギャップを今に伝える旧日立航空機立川工場変電所

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府中本町のサントリー武蔵野ビール工場の近く。府中のエクスカージョンとして、旧日立航空機立川工場変電所にたちよってみました。

旧日立航空機立川工場変電所は、玉川上水の駅から歩いて5分程度の都立東大和南公園の中にあります。現在の都立東大和南公園は、かつての日立航空機立川工場の一部であり、配置図をみるとそれをはっきりと確認する事ができます。

▼現在の都立東大和南公園の配置図。旧日立航空機立川工場変電所は文化財として表記されています。
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▼かつての日立航空機株式会社の工場配置図。非常に巨大な工場だった事がわかります。
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この辺り一帯は1911年に日本で初めて建設された所沢飛行場にはじまり、立川飛行場、福生飛行場、調布飛行場など、たくさんの飛行場がこの辺りに集まっていました。

飛行場の周辺にはたくさんの軍事工場があり、この日立航空機株式会社はその1つでした。それらの軍事工場に資材を運ぶための専用線が鉄道網として整備されていき、現在に至っています。

▼現在の日立航空機株式会社立川工場は都立東大和南公園となり、市民の憩いの場所になっています。
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▼旧日立航空機立川工場変電所は突如として現れます。他の建物や樹木とのコントラストで、異様な感じがします。
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▼旧日立航空機立川工場変電所には無数の空襲による弾痕が見られます。
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▼旧日立航空機立川工場変電所の周りではこの建物の意味を知らないであろう、子供達がたくさん遊んでいました。
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何十年か前の今この瞬間、この場所では何があったのでしょうか。今年もあと3ヶ月もすれば、終戦記念日である8月15日がやってきます。改めて、平和の意味を深く考えてみたいと思います。

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最後に、旧日立航空機立川工場変電所のプレートにあった言葉をそのまま引用して掲載します
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東大和市文化財 史跡・戦災建造物旧日立航空機株式会社立川工場変電所
この建物は、昭和13(1938)年に建設された航空機のエンジンを製造していた軍需工場、東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、日立航空機株式会社立川工場<立川発動機製作所>に改名)の変電所です。

北隣にあった設備で受電した66000ボルトの電気を33000ボルトに変電して工場内に供給する重要な役目を果たしていました。外壁に残る無数の穴は、太平洋戦争の時、アメリカの小型戦闘機による機銃掃射やB-29爆撃機の爆弾が炸裂してできたものです。

工場地域への攻撃は3回ありました。最初は昭和20(1945)年2月17日、グラマンF6F戦闘機など50機編隊による銃・爆撃。2回目は4月19日、P51ムスタング戦闘機数機によるもの。3回目は4月24日、B29の101機編隊による爆弾の投下で、あわせて110余名に及ぶ死者を出し、さらに多くの負傷者を出しました。

この変電所は、経営会社がかわった戦後もほとんど修理の手を加えぬまま、平成5(1993)年12月まで工場に電気を送り続けていました。
都立公園として整備されるにあたり、一旦は取り壊される運命にありましたが、貴重な戦災建造物を保存し次代に伝えたいという市民の活動や、元従業員の方々の熱意がひとつの運動となり、保存へと実を結んだのです。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。そして、東大和市は平成7(1995)年10月1日にこの建物を東大和市文化財(史跡)として指定し、末永く保存、公開するために修復工事を施しました。

戦後、戦争の傷跡を残す建物は次々に取り壊され、戦争に対する私たちの記憶もうすらいできています。この建物から、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて受けとめていただきたいと願うものです。
平成8(1996)年3月東大和市教育委員会
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