【日本人が知らないニッポン】「武士の時代」の残光を求める全国周回旅行のすゝめ

地球上で日本にしか存在しない「武士」と呼ばれる人々。

その武士は鎌倉幕府の成立により「独自の政権を作る」という念願を達成し、400年後の関ヶ原で「発展の終わり」を迎えます。その後、江戸時代に突入してからの武士は官僚化し、本来の存在意義である「自力で所領を防衛する」ということを忘れてしまいました。

すなわち武士にとっての成長期とは、12世紀末から16世紀末までの間だったということです。

この間、武士は日本史に様々なエッセンスを与え続けました。

・武家政権が起こした「革命」

「穢れた存在」と見なされていた武士が京都の公家から政権運営を奪取したのは、12世紀末頃。源頼朝の鎌倉幕府がその始まりです。

もっとも、源頼朝以前に武士は公家から政権を勝ち取ってはいました。平清盛による武家政治です。ですがそれは、武士であるはずの平家が貴族と同質化するというものに過ぎませんでした。武士が求めていたのは「武士の武士による武士のための政治」です。

そういう意味で、源頼朝は武士の念願を成就させたのでした。

史上初の武家政権は、あらゆるものを変えました。

まず、宗教。武家とはそもそも農民で、農民とは一般大衆です。そしてそれまで金持ちの公家が独占していた仏教を、一気に大衆化させました。

10円玉に刻まれている平等院鳳凰堂は、もともとは浄土教の寺院。浄土教とは観念主義ですから、「極楽浄土を現世に再現する」ということが求められます。ということは、広い土地にいくつも立派な建物を作るということですから、浄土教は自然と「金持ちの宗教」になっていきます。

それが平安時代末期から鎌倉時代に差しかかる時期、「南無阿弥陀仏と唱えるだけで極楽浄土に行ける」という思想が生まれます。それが浄土宗、浄土真宗です。

武士の間で、浄土宗が大流行したことは言うまでもありません。

・鉄と武士

もうひとつ、武士は「製鉄技術」を大幅に発達させました。

武士に刀は欠かせません。そして日本における重工業の基礎は、常に刀作りと共にあります。鉄という、じつはデリケートな素材を手作業で頑丈な武器にしなければならないのですから、刀鍛冶は世界最先端の製鉄技術を有していました。

今の島根県に位置する奥出雲では、たたら製鉄が盛んに行われていました。これは巨大なふいごで炉に空気を送り込む技術で、そこからは良質の鉄が生産できます。切れ味鋭い日本刀は、この鉄から加工されました。

16世紀前半の中国地方の覇者だった尼子経久は、この鉄から得られる収益を独占しました。もちろん、奥出雲の鉄を加工して作った槍や刀は兵器として、尼子直属の戦闘集団「新宮党」に配備されました。中国地方の大名といえば毛利元就をイメージしがちですが、じつは若い頃の元就は尼子配下の地方豪族に過ぎなかったのです。経久が存命中の尼子は、戦国最強クラスの大名家でした。

それはひとえに、最高の製鉄技術がもたらした結果と言えるでしょう。

・鉄砲が与えた衝撃

その中で、海外から新技術がもたらされます。

鉄砲です。それまで誰も見たことのなかったこの兵器は、しかし種子島への伝来からたったの1年でコピーされてしまいます。日本刀製造の技術があれば、鉄砲の生産は決して難しくないものだったのです。

鉄砲は瞬く間に普及し、武士にとっても欠かせない武器となりました。そしてそれは、戦乱の世を終わらせるほどの威力を持っていたのです。

同時に、鉄砲は武士が発展する一方だった時代をも終わらせました。万単位の鉄砲は、「どちらかが大勝利する」という結末の戦争をもたらします。逆に、応仁の乱のような微妙な結果の戦争は起こらなくなりました。

関ヶ原の合戦は数万VS数万の戦いでしたから、その当時の多くの大名は「この戦は短くても数年費やすはずだ」と考えていました。ですがこの時の軍勢は、応仁の乱の時代とは比べものにならないほどの火力を有しています。現に関ヶ原での戦いは、開戦初日の日中に勝敗が決まってしまいました。

そしてこの瞬間、「武士の華やかな時代」は終わりを告げたのです。

・「武士の時代」の残光

武士が成長し続けたおよそ400年間は、日本史の中でも最も劇的な時代だったのかもしれません。

その残光は、今も各地で見ることができます。

鎌倉から関ヶ原の間にある観光スポットをたどるだけでも、たくさんの城郭や寺社、そして史跡があります。そこには、かつて風のように野を駆け抜けた武士の息吹がはっきりと残されています。

タイムトラベルの扉は、案外近くにあるのかもしれません。

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