マリー・アントワネットも収容された、パリの監獄・コンシェルジュリー
|世界遺産地区であるパリ発祥の地、シテ島に建つコンシェルジュリー。「コンシェルジュリー」とは、旧王宮の司令官、「守衛(コンシェルジュ)」がいた場所を指します。もともとは14世紀にフィリップ美男王が建てた王宮の一部で、3つの塔と3つの大広間からなる建物です。
外観は城のようですが、裁判所と牢獄の役割を担ってきた少々いわくつきの場所です。ここに収容され、断頭台へと臆された貴族や革命家、文学者は2600人にものぼり、フランス王妃マリー・アントワネットもそのひとり。アントワネットが幽閉生活を送った独房はコンシェルジュリー最大のみどころとなっています。
14世紀末、シャルル5世がシテ島の王宮を離れ、ここは王宮と牢獄の管理権と司法権を与えられた守衛(コンシェルジュ)によって管理されることとなりました。それに伴い、議会所、裁判所、牢獄とその役割を変えていったのです。
コンシェルジュリーは当時最も厳しい牢獄として知られていました。特にフランス革命期には反革命派が大量収容され、すし詰め状態で不衛生な環境での生活を強いられたため、「最も過酷な監獄」として恐れられていました。
館内に入ると最初に目にするのが床面積1800平方メートルの「憲兵の間」。4つの広間からなる空間で、兵士たちの食堂として使われていました。
この広間を通って、監獄があったエリアへと向かいます。
守衛(コンシェルジュ)たちは、監獄の警備、衛生、食料供給を一手に引き受けていました。食べ物は外部から調達していたとはいえ、800人にのぼる収容者たちに食べ物を分配するのは簡単な仕事ではなかったといいます。
ここは死刑執行準備室を再現したもの。
この場所で所持品の引き渡し、剃髪、シャツの襟を裂くといった死刑執行のための準備が行われたのです。死刑囚たちはいったいどのような思いでこの部屋に足を踏み入れたのでしょうか。
当時の監獄は有料だったため、経済力に応じてその待遇が異なりました。最も貧しい囚人は「わら族」と呼ばれ、わらの敷かれた雑居房で寝起きを強いられました。不衛生な環境から多くの囚人が病気になったのだとか。
ある程度お金を払えた中流層の囚人は簡素なベッドのある4~5人の雑居房に収容されました。さらにお金を払うことができた富裕層や著名人には独房が与えられ、読書や書き物をすることも許されました。
1815年には、マリー・アントワネットの独房跡にマリー・アントワネット記念礼拝堂がつくられました。
マリー・アントワネット最後の聖餐式など、生涯の最期をここで過ごした王妃の様子が垣間見える絵画も展示されています。
女性囚人の独房舎に囲まれた「女たちの庭」。
ここで死刑囚たちが断頭台に連れて行かれるための二輪荷車を待ちました。当時38歳だったマリー・アントワネットもここから処刑場のコンコルド広場に向かったといわれています。
マリー・アントワネットが1793年8月2日から10月16日までの2ヵ月半を過ごした独房を再現したアリ―・アントワネット牢。その一部は実際にマリー・アントワネットの独房があった場所にあります。
常時2名の憲兵が警備にあたっていました。
他の囚人に比べるとずいぶんと厚待遇だったとはいえ、暗く湿っぽいこの部屋での生活は華やかな宮殿生活とは天と地ほどの違いがあります。「栄枯盛衰」とはいうものの、これほどまでに波乱万丈で極端な生涯を送った女性はそう多くはないでしょう。
夫であるルイ16世もすでに処刑され、自らの人生に先がないことを悟っていたであろうアントワネットがどのような思いでここでの日々を過ごしていたのでしょうか。
日本人にとってはおとぎ話のように感じられるマリー・アントワネットですが、ここに来れば彼女は確かに存在していたのだと生々しく感じることができます。
ヴェルサイユ宮殿といった華麗なる遺産だけでなく、王家の凋落の象徴ともいえるコンシェルジュリーもあわせて訪れることで、歴史をより重層的に理解できるのではないでしょうか。
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