【日本人が知らないニッポン】浜松城が「徳川の時代」をもたらした
|静岡県浜松市。モーター産業やその他重工業で栄えるこの都市は、現在あることがきっかけで歓喜に満ちています。
それは、来年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』の舞台に選ばれたこと。
静岡県はもともと戦国歴史スポットが多い地域ですが、大河ドラマの中心地に選定されたという出来事はやはり町の空気を明るくさせます。
そして浜松市のシンボルといえば、やはり浜松城です。
・浜松は重要拠点
浜松、すなわち遠州地域は日本の動脈のようなところです。
動脈を切断すれば、人は死んでしまいます。それと同じで、東海道は東京と大阪を接続する一大街道。その只中にある浜松は、天下布武を目指す者なら絶対に確保しなければならない土地です。
織田信長は、なぜ徳川家康を支配下に置いたのか。それは東海道の要所を最も信頼できる者に守らせ、自らは西へ進むという計画を考えたからに他なりません。
だからこそ、武田信玄による西上作戦は信長にとっても大きな危機でした。信玄が狙いをつけたのは、まさにこの浜松城。そしてここから出撃した家康の軍勢は、三方ヶ原の戦いで大敗北を喫してしまいます。
ここで家康が討ち死にしていたら、歴史は大きく変わっていたでしょう。
・「防波堤」を「一番槍」にする
ですが家康は死なず、その後も彼は浜松城を拠点に信長の天下取りを支えていました。
ところが、信長は本能寺で命を落とし、代わりに頂点の座を掴み取ったのは豊臣秀吉でした。秀吉は信長の志した路線を継承する一方、自身は大坂に拠点を置きつつ家康を関東に移封するという政策を実行します。
これは結果的に「東国VS西国」の構図を明確化し、関ヶ原の合戦に連結するのです。
家康が関東に去ったあとの浜松城は、秀吉の家臣である堀尾吉晴・忠氏親子が城主になります。つまりこの時点で豊臣方が浜松を抑えたということで、家康の関西侵攻を牽制するという意味合いも多分にありました。
ですが、この堀尾親子は秀吉死後、家康率いる東軍所属の大名として関ヶ原に参加しています。「対徳川用防波堤」が、大坂へ進軍するための「一番槍」となってしまったのです。
これはまさに、家康の策略が成せる業。防波堤を取り除くのにこの人物が費やした時間と努力は、我々現代人の想像をはるかに超えています。
・野面積みが語る戦国時代
徳川家康を語るには欠かせない浜松城ですが、ここは野面積みの石垣で有名な城でもあります。
自然石をあまり加工せずに積み上げているため、見た目は今にも崩れそうな石垣。ですがじつのところは排水性に優れ、400年もの風雨や自然災害にも見事に耐え抜いています。過去の職人は、極めて高度な計算を用いて城を建てていたということが分かります。
荒々しい野面積みの石垣は、まさに戦国時代の姿を表現しているかのような形をしています。無骨さと大胆さの裏にある緻密さ。それこそが戦国大名の生きた激動の時代だったのです。
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