リトアニア・カウナスで、6000人のユダヤ人を救った「東洋のシンドラー」杉原千畝の足跡をたどる
|「シンドラーのリスト」のオスカー・シンドラーになぞらえて、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる日本人外交官・杉原千畝。
彼は、第2次世界大戦下で、行き場を失ったユダヤ人に「命のビザ」を発給し、6000人以上のユダヤ人の命を救いました。
そんなドラマの舞台となったのが、リトアニア第2の都市・カウナス。杉原千畝の功績はリトアニアでも高く評価されていて、カウナスでは、彼の名を知らない人はいないといっても過言ではないほど。
戦時下にありながら、人として正しいと信じる道を貫いた正義の人、杉原千畝の足跡をたどってみましょう。
・杉原記念館
杉原千畝が勤務していたかつての日本領事館は、現在、彼の功績を紹介する「杉原記念館」として保存されています。
1940年7月、この旧日本領事館前に突然の人だかりができました。彼らはナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の嵐が吹き荒れるなか、ポーランドから逃れてきたユダヤ人。
当時のヨーロッパには、もはやユダヤ人が安住できる場所はなく、シベリアを経由して日本に渡り、そこからアメリカ大陸などに逃れる方法が、唯一彼らに残された希望でした。そのために必要だったのが、日本の通過査証。
ところが、当時の日本はナチス・ドイツと同盟関係にあったため、外務省はユダヤ人に対するビザ発給を認めることはありませんでした。
一晩悩み抜いた結果、杉原千畝は、本国の命令に背いてでもユダヤ人にビザを発給することを決意したのです。
「私を頼ってくる人々を無視するわけにはいかない。でなければ私は神に背く・・・」
それから、カウナスを離れるまでのおよそ1ヵ月間にわたって、寝る間も惜しんでビザを書き続けました。
カウナスの杉原記念館では、杉原千畝の生涯が紹介されているほか、彼が使っていたデスクや「命のビザ」の再現、ビザ発給にかかわる資料などを見ることができます。
記念館内には、日本文化研究センターも設置されていて、日本とリトアニアを結ぶ架け橋としての役割も果たしています。
・メトロポリス・ホテル
杉原千畝が「命のビザ」の発給を始めたころ、カウナスの旧日本領事館はすでに、ソ連政府から一日も早い退去を求められていました。
1940年8月、ソ連当局によって領事館を退去させられた杉原千畝が一時滞在先としたのが、「メトロポリス・ホテル」。彼は、一人でも多くのユダや人の命を救うため、ここでもビザを発給し続けたのです。
ホテルは現在も新市街のメインストリート、ライヴェス通りで営業しており、外壁には杉原千畝の功績をたたえるプレートが掲げられています。
・カウナス駅
1940年9月5日、とうとう杉原千畝がリトアニアを離れる瞬間がやってきます。彼はタイムリミットぎりぎりまでビザ発給の手を止めず、ドイツのベルリンに向かう列車の中で最後のビザを書きました。
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています。」
そんな杉原千畝の言葉に対し、「「ミスター・スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ。」という叫び声が上がったといいます。
そして、その約束は28年後、彼をずっと探しつつげていたユダヤ人の代表、ニシュリ氏との再会によって現実のものとなりました。
カウナス駅の外壁には、メトロ・ポリスホテル同様、杉原千畝を記念したプレートが飾られています。
プレートは、大通りに面した駅舎正面ではなく、ホームに面した裏側の外壁にあります。少し見つけづらいですが、ぜひ探し当てて、当時の状況に思いを馳せてみてください。
人として正しい道を歩むと決めて、カウナスを去るその瞬間まで正義を貫き通した杉原千畝。この街に残る彼の足跡をたどれば、そのまっすぐな生き方に心打たれずにはいられません。
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