トルコ・イスタンブール歴史地区に残る「シェフザーデ・モスク」はスレイマン大帝の愛息子のためのモスク

トルコ史上最高の建築家と評されるミマール・スィナンは、オスマン帝国を最盛期に導いたスレイマン大帝の時代から宮廷建築家として数々の業績を残しました。

ミマール・スィナンは自伝において、自身の建築家としての歴史を「徒弟の時代」「職人の時代」「親方の時代」という3つの時代にわけています。

具体的には、イスタンブールに現存するシェフザーデ・モスクを建てるまでが「徒弟の時代」、スレイマニエ・モスクを建てるまでが「職人の時代」、エディルネのセリミエ・モスクを建てるに至った以後が「親方の時代」といった区分です。

スレイマン大帝のためのスレイマニエ・モスクや、世界遺産にも登録されているセリミエ・モスクはよく知られていますが、シェフザーデ・モスクとはいったいどのようなモスクで、何のために建てられたのかは、あまり知られていません。

シェフザーデとはトルコ語で「皇子」を意味します。このモスクは、スレイマン大帝の息子、つまり皇子であるメフメトのために建てられたのです。

スレイマン大帝のためのモスク、スレイマニエ・モスクよりもシェフザーデ・モスクが先に建設されたのは、スレイマン大帝よりも先にメフメトが亡くなってしまったためです。

メフメトが生まれるまで、スレイマン大帝の後継ぎになり得たのはマヒデブラン妃との間に生まれた皇子ムスタファだけでした。その後、大帝とヒュッレム妃との間に、1521年、メフメトが誕生すると、スレイマン大帝はメフメトを大変可愛がったといいます。

皇子ムスタファに勝るほど思慮深く賢明な性格の持ち主であったメフメトは、ムスタファよりも年下であったのにも関わらず、父と一緒に遠征に同行させてもらったり、後継ぎの最有力候補が歴代治めるマニサに赴任させられたりするほどでした。

帝国の後継者として最も有力視されていた皇子メフメトの死は、彼が22歳の時に突然訪れます。メフメトの死に関しては、いくつかの説があります。天然痘を患っていたという説、ムスタファの母であるマヒデブランによる策略、宮廷歴史ドラマ『オスマン帝国外伝』ではムスタファ側の刺客による殺害、など、1543年にスレイマン大帝とハンガリー遠征に出向いたあとに亡くなったということ以外は、メフメトの正確な死因については謎が多いのも事実です。

最愛の息子の死に悲しみに暮れたスレイマン大帝は、息子の死を記憶するために、当時の宮廷建築家スィナンに、彼のためのモスクを建設するように命じました。それがシェフザーデ・ジャーミィなのです。帝室からスィナンに課せられた最初の重要な任務であったのにも関わらず、出来栄えがあまりにもよかったため、スィナン自身もこのモスクを「徒弟時代の傑作」と評しているのです。

ミマール・スィナンのモスク、としてだけでなく、それを建てるに至った経緯を知ることで、きっとモスクの見学はもっと興味深く、奥深くなります。イスタンブールを訪れたら、その時代背景に思いを馳せながら、メフメトのためのモスクを訪れてみてはいかがでしょうか。

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名前 シェフザーデ・ジャーミィ(Şehzade Camii)
所在地 Şehzadebaşı Caddesi 18-42 34134 Fatih İstanbul