【日本人が知らないニッポン】関ケ原古戦場で戦国武将達が残した「夢のかけら」を味わう
|天下分け目の関ケ原の合戦。
その言葉が示す通り、我が国日本の歴史を大きく変えた出来事の1つ、それが関ヶ原の合戦。
関ヶ原の合戦に限らず、日本における戦国時代の歴史は、生きていくことに必要な術を教えてくれる素晴らしい学びの対象の1つと言えるのではないでしょうか。
・関ケ原は狭かった!
岐阜県関ケ原町。
この町はもちろんその名の通り、「関ヶ原の合戦の行われた町」として知られています。
11月の紅葉シーズンは、かつての激戦地は赤と黄色の美しい紅葉に包まれ、とてもここで殺し合いがあったとは想像がつかないほどの絶景を楽しむ事ができます。
関ケ原古戦場は、山々に囲まれたわずかな平地。ここで十数万の大軍が乱戦を繰り広げていました。
しかしながらいざ現場を訪れてみると、意外な狭さに驚かされます。
たとえば1815年のワーテルローの戦いは、どこまでも丘と平原が広がる土地で行われました。
十万単位の軍勢がぶつかり合う戦争というのは、普通ならば「広大な野原」でやり合うものです。そうした意味でも、関ケ原の合戦は世界的に見て極めて特殊かもしれません。
・長期戦を想定していたが……
また、関ケ原の合戦はわずか半日足らずで決着がついた戦いでもあります。
戦闘開始直前まで、これだけ大規模な戦いならば数年を費やすのではと考えられていました。
毛利輝元が総大将を務め、石田三成が現場指揮官に立った西軍では、どうやら長期戦を想定していた形跡があるようです。
関ケ原の合戦は、関ケ原だけで行われたわけではありません。上杉、真田も協力して徳川家康の手足を少しずつもぎ取っていく。
そうして家康の野望を潰そうという狙いで多くの武将達が様々な活動をしていました。
・三成の「夢のかけら」
石田三成が陣を置いた笹尾山からは、戦場全体の様子が見て取れます。
石田三成から見て、徳川本陣はまさに「目と鼻の先」。
そして東方に位置する南宮山には、西軍に属した毛利と吉川の大軍がいます。
もしかしたら当時の石田三成は勝利を確信していたのかもしれません。
しかしながら実際の歴史は石田三成の思った通りにはいきませんでした。
家康と内応していた吉川は動かず、南宮山からの支援はなくなってしまいます。さらに小早川秀秋の裏切りにより、西軍は完全に動揺し、あとは皆様ご存知の通り、徳川の統治が江戸時代末期まで続きます。
紅葉が美しいこの山には、かつての武将達の「夢のかけら」が落ちているのかもしれません。
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