【日本人が知らないニッポン】「商人都市」浜松のベンチャー気質(静岡県浜松市)

静岡市と浜松市は、同じ静岡県。ですが当の県民は、「静岡と浜松は違う!」と口を揃えます。

明治以前、確かに静岡市と浜松市は別の国でした。それぞれ駿河府中、遠江と呼ばれていました。ですが、その点は「些細な違い」に過ぎないと筆者は考えています。

静岡と浜松の最大の違い、それは浜松は「商人の町」であり、駿府に比べてベンチャー志向が強いということではないでしょうか。

浜名湖と浜松

浜名湖は西暦1498年以前は、遠州灘とは隔離された淡水湖でした。

それが大地震により、南側の陸地が消滅します。すなわち浜名湖は汽水湖になったのです。

これが何をもたらしたのか。まず東海道の陸地がなくなったことにより、浜名湖を経由した水上ルートが確立されたという点。そして遠州灘との直接的な水路が登場したという点です。これにより、浜名湖周辺の土地は海運商人の本拠地となりました。

オランダ、シンガポール、スペイン領セウタなどに共通するのは、目標は大きいけれど会計に厳格な商人気質の人が多いという特徴です。水上貿易で栄えた都市は、やはり「全市民が商人」という感じの空気が漂っています。

そのあたりの性質が、静岡市と浜松市の違いと言えるでしょう。

気賀商人の影響力

NHKで放映中の大河ドラマ『おんな城主直虎』には、気賀の商人瀬戸方久という人物が登場します。

この気賀という町は、陸運事業と海運事業の両方で大いに賑わっていました。東海道が大地震により陸続きでなくなったということは先述しましたが、その代わりの陸路として浜名湖を北に迂回するルートが整備されます。その只中に、浜名湖を見渡す気賀があったのです。

気賀が儲からないはずはありません。

『直虎』でも、気賀はひっきりなしに貿易船がやって来る町として描かれています。そしてその経済力に目をつけた井伊直虎が、方久に協力を申し出るというシナリオです。戦国時代当時の井伊家は、そもそもが弱小領主だった上に貴重な男性後継者を次々と失っています。だからこそ女性である直虎が家督を継いだのですが、いずれにせよその勢力基盤は極めて脆弱なものでした。

それをカバーする最良の手段が、経済力を持つこと。史実の直虎が気賀商人のバックアップを取り付けていたという話は、充分に有り得ることなのです。

信玄は何を目指したのか

やがてこの浜松に、「甲斐の虎」武田信玄がやって来ます。

少し前まで信玄の西進は「京都へ向かい天下に覇を唱えるため」と言われてきました。ですが現在は、このあたりの動機は否定されつつあります。つまるところ、なぜ信玄が織田・徳川連合軍と戦う道を選んだのかは「解明されていない」のです。

ですが、信玄にとって浜名湖は魅力的なものに見えたのは間違いないでしょう。

武田領は山に囲まれ、海に面していません。ですから信玄は、駿府の太守だった今川を追いやってまで駿河湾を手に入れました。その上で浜名湖を支配できれば、より広い水上交易ルートと東海道最大の要所を我が物にできます。

つまり、この時点で浜松は戦略上の重要拠点だったということです。

ここで徳川家康は討ち死にの一歩寸前まで追いやられますが、辛うじて浜松城に踏み留まります。

そしてそこから、天下人としての大逆転を目指すことになるのです。

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