【新東方見聞録】いにしえのベトナム、アジアの大繁栄を支えたチャンパ王国の息吹

今のベトナム中部から南部にかけて、チャンパ王国という国がありました。

非常に息の長い王朝で、アジアの文化の発達に深く関わった偉大な国家でもあります。ですが、日本ではチャンパ王国の名すら殆ど知られていません。

日本文化とは、外来のものを取り込み続けた歴史の結果作品です。そこにはチャンパ王国の影響も多分に見られます。

「陸より海」の貿易原理

まず前提として、チャンパ王国は海洋貿易により栄えた王朝であるということを念頭に置かなければなりません。

陸伝いの貿易と海伝いの貿易、どちらがよりスピーディーかといえば海伝いの貿易です。二本足で川や山や荒れ地を進むとなると、やはり時間がかかります。それに陸伝いの貿易は、同一人物が数千キロ先の国に行くということは殆どありません。拠点毎に別人物へリレーしていくのが、いわゆる「シルクロード交易」の内実です。

しかし、海伝いとなると難破の危険はありますが、その気になれば同一人物がどこまでも遠くへ行くことができます。広いエリアでのビジネスをAさんが一手に引き受けるとなれば、ビジネス自体も効率がよくなります。

ヨーロッパ人は、15世紀中頃からこの原理に気づきました。ですがアジア人は、その数百年も前から「海のシルクロード」の有用性を知っていたのです。

偉大なる救荒作物「チャンパ米」

そのようにしてチャンパ王国がアジア全体に普及させたものは、数多くあります。

ひとつ例を挙げれば、チャンパ米です。

東アジア、東南アジアは稲作文化圏ですが、「米の取れる頻度」に違いがあります。日本や朝鮮は年1回しか米を収穫できませんが、タイやインドネシアあたりでは年3回の稲作が可能です。問題はその中間、沖縄や台湾、中国南部あたりの稲作事情です。この辺の稲作の頻度は年2回です。

沖縄からは「お中元に間に合う新米」が日本全国に発送されていますが、昔の人にとって稲作の頻度は生活に関わる問題でした。年1回より、年2回のほうが当然いいわけです。ベトナムからもたらされたチャンパ米は早稲種で、しかも粒の実りも多い救荒作物でした。

このお米により、アジア全体の生活基盤が底上げされます。14世紀、ヨーロッパはペストの大流行で荒廃の只中を歩んでいたのと同時期に、アジア海洋地域は繁栄の絶頂を迎えていたのです。

香木と日本史

そしてもうひとつ、チャンパの香木の存在も忘れてはいけません。

現在、正倉院にある蘭奢待は日本史にとってもっとも重要な香木です。足利将軍家や織田信長がその一部を切り取り、加熱して香りを味わっています。その蘭奢待は、どうやらチャンパ王国からの輸入品とのこと。

もっとも、このあたりは確たる証明が今もないためはっきりとしたことは言えないのですが、チャンパ王国が香木を重要な交易品にしていたのは事実。徳川家康も、香木輸入のためにわざわざチャンパ王国へ書簡を送っています。

そんなチャンパ王国にとっての聖域、ミーソン寺院は今日では遺跡群として保存されています。緻密なレンガの組み合わせにより建てられ、非常に高い強度を誇ります。

ベトナム戦争時、ミーソン遺跡はアメリカ軍による爆撃で荒廃していまいました。しかしそれでも完全崩壊しなかったのは、チャンパ王国の建築技術の賜物と言うほかありません。

アジア史をめぐる旅の中で、このミーソン遺跡は絶対に欠かせないスポットなのです。

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